JFA DREAM 夢があるから強くなる

RSS feed










「長沼健最高顧問を偲ぶ 〜長沼さんに、オマーン戦勝利の報告〜」 (08.06.06)

 日本サッカー協会の長沼 健 最高顧問が6月2日、肺炎のため都内の病院で死去しました。温厚な人柄と包容力に満ちたリーダーシップで国内外の多くの人々に慕われた長沼氏の逝去に、サッカー界は大きな悲しみに包まれました。
 今週のコラムは、長沼氏のご冥福を祈り、川淵キャプテンが同氏との思い出を語ります。

6月2日、長沼さんが永眠されました。

 この日は、FIFAワールドカップアジア3次予選第3戦となる対オマーン戦が行われる日で、絶対勝ってくれよと思いながらいつもより緊張感を持って家を出ました。協会に到着して間もなく岡野俊一郎名誉会長から電話があり、突然の訃報に絶句。体調が芳しくないことはご家族から聞いていましたが、あまりにも早い死にただただショックを受けるばかりでした。ワールドカップ出場権獲得に向けて3次予選、最終予選を控えた中で、長沼さんには日本代表の活躍ぶりを見守っていてほしかったので、私としても無念です。


長沼さんとの出会い〜そしてお別れ

 僕が長沼さんと初めて出会ったのは、大学2年の頃。当時、日本サッカー協会は御茶ノ水にある、木造平屋建ての体育協会の一部屋を借りていて、僕は海外遠征の手続きをしに協会を訪れました。その時、長沼さんがいらして、「ああ、この人が有名な長沼健選手かぁ」と感激しながら、気持ちよく挨拶させてもらいました。長沼さんは日本を代表する選手にもかかわらず、先輩風を吹かせるわけでもなく、誠実で大人しい印象でした。
 卒業後に古河電工に入社したので、プレーイングマネージャーだった長沼さんとは数年間、一緒にプレーしました。印象的なのは1961年、新潟を会場に全国実業団大会というのが行われた際、決勝戦で長沼さんがトゥキックでゴールを決め、優勝したんです。そのシーンは今でも鮮明に覚えていますね。
 全国の運動記者クラブ・サッカー担当者がシーズンを通して最も活躍した選手を「年間最優秀選手」として表彰する賞があるのですが、長沼さんは、その年、記念すべき第1回の最優秀選手に選ばれています。
 その後、会社から社技としてのサッカー活動を控えるようにというお達しがあったんですが、僕ら選手は長沼さんを中心に結束して、自分たちの負担でやるから試合には出場させてほしいと訴え、それで公式戦は休むことなく参加できました。大会には出場できたものの、新規の選手を採用できなくなり、JSLでは控えの選手が2人しかいないという状況で戦っていたんです。そんな状況でも古河電工サッカー部としての伝統が築けたのは、長沼さんの存在があったからこそ。長沼さんというリーダーがいなかったら、とっくに瓦解していたと思いますね。
 僕は昭和33(1958)年に初めて日本代表に選ばれ、その4年後に長沼さんが32歳の若さで代表監督に就任しました。当時、僕は脊椎分離症で腰痛と足の痺れに苦しんでいて、A代表からB代表に落とされたんですが、それを監督から聞かされずに新聞報道で知ったんですね。当落選上にいるのは認識していたけど、会社ではよく顔を合わすわけだから、正直言って直接言ってほしかったなと当時は少しショックを受けました。でも、長沼さんとしては代表監督として一線を画しておくべきだと考えておられたのでしょう。そういう、自分の規律というものをしっかり持ち、チームや選手を導いている人でした。
 長沼さんが監督に就任してから東京オリンピックまでの2年間、岡野(俊一郎)さん、デッドマール・クラマーコーチという指導体制のもと、日本代表チームはめきめきと力をつけていき、東京オリンピックでベスト8を獲得。その後も長沼・岡野のコンビで、メキシコで銅メダルという快挙を達成しました。長沼さんと岡野さんほどの名コンビは、これから先も出ないのではないでしょうか。
 どんな困難な状況でも感情を表に出さなかったのは、勝負師としては重要なところですが、厳しい試合でも、ベンチにいる長沼さんの表情を見ると、「これはまだ行けるかもしれないぞ」と思ったものです。また、監督というのは選手にあれこれと言いたくなるものなんですが、長沼さんは試合前に一言、二言指導するだけで、細かいことは全て岡野さんに指示し、選手は岡野さんから伝えられていました。陣頭指揮を執りたがる監督がほとんどの中で、長沼監督は稀有な指導者と言えるでしょうが、その長沼さんの人間力が岡野さんとの強固な連帯感を育み、日本代表の基盤を作ったわけです。
 2002年のワールドカップ招致の際は、世界中を飛び回り、1年の半分を飛行機の中で過ごした長沼さん。疲労も感じさせず、愚痴一つ言わず、精力的に活動できたのは、彼をおいてほかにいなかったと思いますね。英語が苦手だったので、各国連盟や協会の要人と会話することはできませんでしたが、言葉が通じなくてもその人柄は万国の要人に通じ、「日本=長沼」という認知を得ていました。当時、僕らは韓国との共催を忸怩たる思いで受け入れた格好でしたが、公の場ではその感情を微塵も見せずに、成功のために努力すると明言された。その意志の強固さはさすがに長沼さんだと感銘を受けました。
 4日の葬儀では、岡野さんが長沼家の代表の一人として挨拶しました。集まった人々にお礼を言う際、2回ほど岡野さんが声を詰まらせたんです。初めて見る岡野さんの涙でした。62年という長きにわたって幾多の喜びや困難を乗り越えてきた同志だけに、長沼さんとのお別れは誰にも増して辛かったと思います。
 現在、サッカー協会に世界中のサッカー関係者からお悔やみの言葉が届いています。世界中のサッカー人から慕われた長沼さんだからこそ。国内外の多くの関係者からお悔やみしたいという連絡を受けていますので、ご家族とよく相談し、了承が得られれば、体協とも相談の上、お別れの会を執り行いたいと考えています。
 謹んで長沼さんのご冥福をお祈りします。


長沼さんに勝利の報告〜FIFAワールドカップアジア地区3次予選、日本vsオマーンの試合〜

 6月2日のオマーン戦は、長沼さんの弔い合戦となりました。3-0でオマーン戦に快勝し、長沼さんに良い報告ができたのでホッとしています。
 雨の中、応援し続けて下さった4万6,764人の観客の皆さんも代表の戦いぶりに満足されているのではないかと思います。
 この試合、攻撃面では、松井(大輔)と中村(俊輔)がしっかりとボールをキープし、そこからバリエーションに富んだ攻撃を展開していましたね。4点取れたらもっと楽になったでしょうが、まぁ、そこまで言うのは贅沢かもしれません(笑)。
 2004年にオマーンと3試合しているんですが、3試合とも1-0という僅差で勝っていて、五分五分の中での勝利だった。最近になって王族のバックアップを得て財政面にゆとりができ、強化につぎ込んでいると聞いていただけに不気味に思っていました。試合前にもちょっと不安がよぎったのですが、キリンカップでのコートジボワール戦のように、選手が全身を使ってプレーしていましたし、意思の疎通もできていたので、安心して観ることができました。しかし、パスの中での連携はまだ100%じゃなかった。これができてくればもっと面白くなるチームだと思いますね。それに中盤の守備はオシム時代にはない岡田色が出ていたので、それが直ちに攻撃に結びつけばもっと良いチームになると思いますよ。
 今回、楽に勝ったからといって、次のオマーン戦も楽勝、なんて思っちゃいけないですね。もちろん、そんなことは岡田監督が十分認識しているので言うまでもないことですが・・・。オマーン協会の会長からは、「次はバックラインを5人でしっかり守るし、気温も45度もあるから覚悟しておいて下さいよ」なんて脅されましたが(笑)、岡田監督以下、強い気持ちで臨んでくれるでしょう。
 今回、玉田(圭司)も点こそ入らなかったもののいいチャンスつくっていたし、飛び級で選ばれた香川(真司)も何とか前で点を取ろうとアグレッシブに戦っていました。若い選手の起用は岡田監督を評価すべき点で、代表選手も、他の代表も大きな刺激を受けるはず。日本代表もU-23も競争原理が働いて活気が戻ってきたし、先の見通しがたってよかったと思っています。
 2006年のワールドカップが終わってから、代表戦の観客数が芳しくなかったのですが、こういう試合を続けていければ、お客さんもまた観に来ようと思ってくれるでしょう。ファン、サポーターの声援が選手を奮い立たせてくれるので、是非、スタジアムに足を運んでいただきたいと思っています。


財団法人 日本サッカー協会
キャプテン  川淵 三郎
2008年6月6日