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国際交流・支援活動

【海外赴任レポート】 タジキスタン 鈴木 隣さん 2012年3月

【プロフィール】

鈴木 隣(すずき・ちかし)

1959年1月29日生まれ。宮城県石巻市出身。
高校時代は、国体少年の部の宮城県代表に選ばれた。高校卒業後、日本大学に進学し、保健体育審議会サッカー部に所属。大学卒業後は宮城県佐沼高校、宮城県石巻工業高校に赴任してサッカー部を指導。1983年から6年間、国体成年の部の代表選手としても活躍した。また、1986年から3年間、松島クラブ(東北社会人リーグ)でプレーした。宮城県サッカー協会技術委員や同県国体代表コーチを務め、その後、ドイツへ渡りザールランド州サッカー協会研修員として、U-12、U-15を指導。オーバーリーガFCザベリグンのコーチ、バイヤーユルディングンやMUデュイスブルクのゲストコーチを経て、1995年にドイツサッカー連盟公認A級コーチライセンスを取得した。帰国後、宮城県利府高校サッカー部監督、群馬県全日本サッカー学院総監督、フォルトゥナFC監督、群馬県サッカー協会技術委員、前橋育英高校コーチ、奥寺スポーツアカデミー総監督を経て、2010年9月〜12月、JICAの派遣により、U-16タジキスタン代表監督、同国サッカー協会ダイレクターに就任。2011年7月〜11月は、JFAの派遣により、U-16タジキスタン代表監督および同国代表テクニカルコーチを務めた。1998年、JFA公認S級コーチライセンス取得。


~派遣国・地域の紹介 : タジキスタン共和国~
中央アジアに位置し、中国、アフガニスタン、キルギス、ウズベキスタンと接する。首都はドゥシャンベ。面積は約14 万平方km(日本の約40%)で、人口は710万人(2010 年、国連人口基金)。公用語はタジク語で、ロシア語も広く使われている。民族の約80%がタジク系で、ウズベク系(17%)、キルギス系(1.3%)、ロシア系(1%)、その他(0.8%)と続く(以上、外務省ホームページを参考)。FIFA ランキング:145 位(2012年3月7日発表時点)

はじめに

 日本サッカー協会(JFA)のアジア貢献事業に興味を持ち、また派遣指導者の報告を聞くにつれ、私自身も迷わず希望し、そして初めてタジキスタンに派遣していただいて、早2年が経過しました。
 当初は、現地の情報をJFA国際部や外務省から報告いただき、意気揚々と現地入りしたものでした。しかし、いざ内部に関わってみると、アジア大会の参加など国際試合を経験できるという半面、それ以上に、タジキスタンサッカー連盟の組織やそれを取り巻く環境をはじめとするさまざまな問題と課題は、予想をはるかに上回っていました。

「アフガンの風に吹かれて」そして「ソムニの戦士」になる

(アフガンの風とは、隣国アフガニスタンから吹き荒れる砂嵐のことで、悪いことの風習や気候変動の前兆を意味する。ソムニの戦士とは、タジキスタンの紙幣に描かれているタジキスタンの英雄ソムニ王である)

 旧ソビエト連邦時代、サッカーは同国で最も人気のあるスポーツであり、同国出身の選手が旧ソ連のチームでも活躍していましたが、旧ソ連の崩壊後は内戦が起き、優秀なコーチ、選手のほとんどは現ロシア に移住してしまいました。
 タジキスタンサッカー連盟は1936年に設立されました。1991年にタジキスタン共和国となった後、1994年に国際サッカー連盟(FIFA)とアジアサッカー連盟(AFC)に加盟。内戦によるサッカー環境の悪化のため低迷していましたが、2004年には新本部を設立、現在はサッカーの振興と選手の育成に再び努力しているところです。
 まず私が赴任したときに、サッカーの指導はもちろんのこと、それ以上にタジキスタンの風習にどっぷり漬かり、人間としての信頼関係から入っていきました。

①庶民の食事風習をとる
 水環境が悪く、2週間下痢の連続に悩まされましたが、連盟関係者に笑われながらも、昼夜一緒に食事をしました。また、食事間のアルコール度40%の乾杯が何度となく続く酒盃で、倒れて自宅に担ぎ込まれたことも幾度となくありました。しかし、その酒席の中で、貴重な人間関係をつくることができました。

②イスラム教文化
 タジキスタンはイスラム教が90%のタジキスタン人と、10%のロシア正教徒の旧ソ連時代に残ったロシア人から成り立っています。
 1日に何回も行われるお祈り、断食の時期、トレーニングの間も中断して行われることもありましたが、それも理解してとり入れました。

③内戦で軍事政権が続いたことによる強い縦社会
 連盟内部での話し合いは、常に上層部からの指示に従うだけで、会議では意見が言えずに終わってしまいます。関係者のモチベーションの低さにつながっているこの問題が、タジキスタンサッカーの低迷の理由の一つであり、発展的な方向を妨げる原因となっています。幸いに前述の酒盃の信頼関係から、タジキスタン連盟会長には、イスラム教文化でいう「お前は家族になった」と言われ、「何でも意見を言ってくれ。命にかけて実行する」と、いつも持っているピストルを心臓に押し当てました。

④タジキスタン社会の貧富の差(アフガンの悪い風習の打破)
 上流階級の子どもたちだけがクラブチームに所属し、学校、大学に通っています。貧困層は学校にも通えず、家の手伝いとストリートサッカーに明け暮れているのが現状です。
 着任当初は、大統領所有の塀に囲まれたサッカーグラウンドで、地域クラブから推薦されたU-12、U-15の選手を、午前・午後と2回に分けて毎日指導していました。
 しかし、日常私が見ている、路上でユニフォームもなくボロボロの普段着でボールを追っている子どもたちを何とか引き上げたいと思うようになりました。なぜなら、いつも指導している選手は、上流階級の子どもたちばかりで、強さが足りない感じがしていたからです。そこで、会議のときに会長にお願いをし、月2回の地方での巡回指導によるサッカーの普及と、新たな選手の発掘を行いました。クラブチーム以外からも公募で200名ほど選手を集めて、練習試合を開催することができました。また、JFAにお願いをして、貧しい子どもたちのためにユニフォーム200着やスパイク等を提供していただきました。
 U-16代表選考では、今までは上流階級からの賄賂が横行し、それによって代表選手が選ばれるのが当たり前のようになっていた風習を、一切遮断しました。その結果、貧困層の中からU-16タジキスタン代表選手を2名、希望の星として輩出することができました。

⑤出会い
 このことが話題となり、テレビ局や新聞社から取材を受けるようになりました。その後、タジキスタン国スポーツ省(文部科学省)に呼ばれ、スポーツ全体の向上のための指導者のライセンス制度導入のきっかけとして、手始めにサッカー連盟公認ライセンス制度の組織作りのために、スポーツダイレクターへの就任要請を受けました。
 また、FIFAワールドカップ3次予選進出にあたり、日本代表との試合が決定すると、サッカー選手でもあった大統領ご長男のルスタム氏(現連盟会長)、コシモフ会長(当時/前連盟会長)に呼ばれ、タジキスタン代表テクニカルコーチの要請も同時に受けました。ご存知のように、試合自体は大敗を喫しましたが、このことをきっかけに、テクニカルレポートを作成し、今までにないくらい会議を開き、意見交換をするようになったのです。

⑥今後の課題と活動
 日本代表と試合ができたことは、タジキスタンサッカー連盟はもとより、スポーツ界全体にとって多大な刺激となりました。国中挙げてのスポーツ大イベントで、スタジアムはかつてないほどの盛況ぶりでした。
 その後の会議で、「日本を目標にしよう」という案が出て、大統領名で各地域の首長に対し、「サッカースタジアムの改築と環境整備をするように」との命が下されました。
 また、タジキスタン代表がアジアで勝てるチームになるには、ユース世代の育成が不可欠であり、かねてからルスタム氏とサッカーアカデミーの創設について話し合い、施設等はほぼ完成してきました。現状では、優秀なコーチや公式試合の不足、国際試合の経験不足から、大切な時期に適切なトレーニングが施されていません。これらを踏まえ、国際フットボールフェスティバルの開催を提案し、大統領保養地のホシャ ンドの施設に、国際チームが呼べるグラウンド3面(ナイター設備付)、ホテル3棟を開放してもらうことが決定しました。

 AFC U-16選手権での予選敗退は、私にとっても悔しいことでした。タジキスタンのあの子どもたちの悔し涙を無駄にしたくはありません。だからこそ、厳しい意見や指導を率直に述べ、その情熱がタジキスタンというまったく異国のサッカーを愛する人々に共感を与え、やる気と勇気を呼び起こし、タジキスタン人が常に自慢話をする「ソムニの戦士」になろうとするのを助けることができれば幸いです。
 最後に、私は東日本大震災で被災した石巻市出身です。哲学者だった父が津波を受けて命をおとす直前に、異国タジキスタンへ行く私に残した言葉を紹介します。
 「明日世界が滅びようとも、私はりんごの苗を植え続ける」(マルチン・ルター)