JFA|日本サッカー協会  Japan Football Association
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 東京オリンピック開催決定の歓喜が冷めやらぬ中、日本サッカー協会(JFA)は今日、創立93周年を迎えました。
 毎年、創立記念日にはJFAの名誉総裁であられる高円宮妃久子殿下にご臨席いただき、日本サッカー殿堂の掲額式を開催しているのですが、今年は2020年のオリンピック東京開催が決まって間もないだけに、会場は一段と喜びに溢れていました。

 式典は、「8日の5時20分を境にして実に清々しく晴れがましい空気が日本を覆っております」と、2020年のオリンピック開催を寿ぐ山本浩さん(元NHKアナウンサー)の一言で幕が切って落とされました。

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<司会を務めた山本浩さん>

最初に大仁邦彌会長が登壇。5大会連続5度目のワールドカップ出場を決めたSAMURAI BLUE(日本代表)やなでしこジャパン(日本女子代表)、来週からタヒチで行われるワールドカップに臨むビーチサッカー日本代表や、同じく世界大会を来月に控えたU-17日本代表のことに触れ、「このような長足の進歩は世界的に見ても極めて稀。掲額者をはじめ、関係者の皆さんの努力が実を結んだものにほかならず、先輩の皆様の功績に心からの感謝を伝えたい」と挨拶しました。

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 高円宮妃殿下からは、「こういう形で日本サッカーの歴史を残していくというのは、次の世代が色々なことを学ぶ上でとても大切です。サッカー殿堂があるということは、この先のサッカーはそれをベースにより良いものにしていかなければならないということ。殿堂の方がよくて劣化するような形は許されません。そこにいらっしゃる方たちに申し訳ない。それを肝に銘じて、日本のサッカーをより充実したものにいければと思っております」と、貴重なお言葉を賜りました。

 既にご案内していますが、今年、殿堂入りしたのは、JFAの小倉純二名誉会長と元日本代表監督のハンス・オフトさん、そして、元国際主審の高田静夫さんです。

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 小倉名誉会長は1988年、低迷していた日本サッカーリーグの強化と発展を目的にした「活性化委員会」の委員長を務め、Jリーグ発足に向けての制度設計と基盤整備に尽力しました。国際派と言われた小倉名誉会長は、2002年のFIFAワールドカップ招致委員会の事務局長としても活躍。招致活動に世界各国を飛び回り、2002年のワールドカップ成功後はFIFAの理事に就任し、長年にわたって日本と世界の架け橋となりました。柔和でリベラルな人柄は世界各国のサッカー人からも愛され、親しまれています。

 そうそう、日本がワールドカップ初出場を決めたフランス大会のアジア予選。知らない方も多いと思いますが、それ以前は、ホーム&アウェイではなくセントラル方式で行われていたんです。
 西アジアの中立国で行われる事が多く、東アジアのチームにとっては長時間の移動や時差、気温差が大きな負荷となっていました。当時、西アジア各国からバーレーン開催が提案される情報を入手した小倉名誉会長(当時、JFA専務理事)は中国、韓国、ウズベキスタンなどの賛同を得て、中間地点となるマレーシアでの開催をFIFAに訴えました。この時、FIFAから下された仲裁案は、「ホーム&アウェイ方式でアジア予選を開催する」というものでした。つまり、小倉名誉会長が奔走したことによって、アジア最終予選は現在のホーム&アウェイの方式になったというわけです。

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 オフトさんは、「ドーハの悲劇」の時の代表監督ですから、サッカーファンの皆さんはよくご存じでしょう。
 今日の掲額式には、オフトさんのもとでコーチを務めた清雲栄純さんのほか、当時の代表メンバーである柱谷哲二さん、ラモス瑠偉さん、北澤豪さんも駆けつけました。また、中山雅史さんも忙しい合間をぬって会場に立ち寄り、式典の席に着いたオフトさんとしばし抱擁を交わしていました。

 実はオフトさんが就任するまでは、JFAが代表監督を雇ったことはなく、JSLに所属するチームに頼んで派遣してもらう時代でした。オフトさんは代表監督に就任する前にヤマハ(現、ジュビロ磐田)や東洋工業(現、サンフレッチェ広島)のコーチを歴任。1984年には東洋工業の監督となり、チームを天皇杯優勝に導きました。その後、オランダに帰国、FCユトレヒトのGMを務めていました。

日本サッカー激動の時代――。

 プロ化が本格的に動き出した1990年、ブラジルでプロとして活躍していた三浦知良選手が帰国し、ラモス瑠偉選手らとともに代表入りします。当時、代表強化の総責任者をしていた川淵三郎キャプテンは、アマチュアの代表監督ではもはやプロ選手を束ねるのに限界があると感じ、オフトさんに監督を依頼しました。日本サッカーにとって初めての外国人監督であり、プロの監督でもありました。

 代表監督に就任したオフトさんは、カズ、ラモス、柱谷、井原正巳、松永成立といった個性あふれる選手の特長を最大限に生かすとともに組織力を強化。1992年のダイナスティーカップに続き、AFCアジアカップで日本代表を悲願のアジア初優勝に導きました。そしてこの年、FIFAワールドカップアジア最終予選で、日本は夢のまた夢だったワールドカップの切符を目の前に手繰り寄せます。

しかし、勝利の女神はそう簡単に夢の舞台への扉を開けてはくれませんでした。そう、「ドーハの悲劇」です――。

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<代表監督を退いた後はジュビロ磐田、京都パープルサンガ、浦和レッズの監督を歴任>

 その悔しさと経験が日本代表を強くし、1998年のフランス大会初出場につながったのは言うまでもありませんね。

 もう一人、殿堂入りした髙田静夫さんは、1986年のFIFAワールドカップメキシコ大会で日本人として初めて主審を務め、続くイタリア大会(1990年)でも主審を担当、日本サッカー審判員の歴史にその名を深く刻んでいます。現役引退後は、審判委員長として審判員のプロ化や強化のための制度改革を行うとともに、審判組織の安定化や情報伝達の迅速化を実現しました。今、多くの日本人審判員が国際舞台で活躍するようになりましたが、その先陣を切ったのが髙田さんというわけです。

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<1993年のJリーグアウォーズでは最優秀審判員賞を受章>

 掲額式の最後に、高円宮妃殿下と大二会長、掲額者の皆さんとの記念撮影が設けられました。その後、掲額者とそれぞれご家族の方とのフォトセッションとなったのですが、オフトさんの撮影の時、ラモスさんが「俺たちも入れろ」と言わんばかりに来賓席から指笛を吹いてアピール。オフトさんのご家族に、ラモスさん、柱谷さん、北澤さん、清雲さんも入り、賑やかな撮影会となりました。

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ドーハの悲劇からちょうど20年――。今年の掲額式は、Jリーグの黎明期を彩った方々の殿堂入りでもあり、感慨深いものがありました。

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