JFA|日本サッカー協会  Japan Football Association
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 日本サッカー協会のスタッフを対象に開催している研修会「温故知新」。
 川淵三郎キャプテン、大畠襄顧問に続き、昨日は浅見俊雄顧問(元国際審判員/日本サッカー殿堂)を講師に、「サッカーの競技規則と審判員の歴史」と題した講義をしていただきました。

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 遡ること紀元前の時代――。紀元前200年頃の前漢の時代に今のサッカーに似たゲームが兵士の訓練に使われていたと言われています。一方の欧州でもギリシャにエピスキロス、ローマにはハルパスツーム、フランスの「スール」という競技があったそうで、そのうちの「スール」がイタリアで「カルチョ」になり、イングランドに渡ってフットボールになったと言われています(諸説あるようですが・・・)。

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 中世の英国で行われていたフットボールは、決められたルールなどなく、色々なやり方でプレーされていたといいます。これが極めて乱暴で、殺人を除くあらゆる手段が使われていたのだとか・・・。命がけのスポーツ、というか、スポーツの体など成していなかったでしょうね。
 当然、命を落とす人もいたため、1314年にロンドン市長がエドワード二世の名で禁止令が出されました。ちなみに、この禁止令、1847年までの533年間で、わかっているだけで42回にわたって出されたそうです。

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 16世紀に宗教改革が行われると、禁欲的な生活から少し開放的になり、国王の庇護のもとに試合が行われるようになりました。

 18世紀に入ると、フットボールはパブリックスクールの教育の一環として取り入れられるように。パブリックスクールは紳士を育てる上流階級の人々の学校ですから乱暴なプレーは禁止され、学校ごとにルールを定めてプレーしていました。
 パブリックスクールを卒業して大学に進学した学生たちも当然、サッカーを続けるわけですが、統一したルールがありませんから試合を行うにもうまくいきません。そこで、ケンブリッジ大学で「ケンブリッジルール」というルールが制定されました。

 また、この頃、宗教改革によって鉄道のネットワークが広がり、土曜日が半日労働になります。余暇が増えたことで、多くの人々がフットボールを楽しむようになり、各地に愛好家のクラブができていきました。しかし、ケンブリッジルールが必ずしもすべてに受け入れられていたわけではなかったため、試合の際にはやはり、あちらこちらで混乱が生じました。

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 そこで、ロンドン近郊の11のクラブのキャプテンがフリーメイソンズ・タバーンという居酒屋に集まり、The Football Association――そう、FA(イングランドサッカー協会)を設立するわけです。1863年10月26日のことです。
 ちなみに、会議は5回にわたって行われ、ハッキング禁止、ハンドリング禁止(但し、フェアキャッチは認められる)というルール定められました。この翌年にフェアキャッチも禁止されるのですが、これに不満を持った一部のクラブがFAから脱退し、その後、The Rugby Unionを結成。こうしてフットボールは、Association Football=サッカーとRugby Football=ラグビーと袂(たもと)を分かつことになるのです。

 さて、FAで採択されたフットボールのルールですが、これはあくまで実験的なもので、規則はその後も変遷していきます。

 FAが設立された3年後にシェフィールドにいくつかのクラブが集まり、別の協会が設立されました。この年にシェフィールドがロンドンに挑戦して代表戦が行われるのですが、この大会で、1チーム11人で行うこと、ボールはリティホワイトの5号球を使うこと、時間は3時に始まって4時半に終わること、フィールドの大きさは長さ120ヤード、幅80ヤードにすること、などが決められました。今のルールの原型ですね。
 1871~72年にFAチャレンジカップ(FAカップ)が開催され、大会規定で、競技者数が11人、試合時間は90分と決められ、それが後に競技規則に書き込まれました。

 FA誕生から10年後にスコットランド協会が設立され、1877年にはウェールズとアイルランドにそれぞれ協会ができると、4協会内の国際試合が行われるようになりました。試合を円滑に行うために1882年にようやく統一された規則が制定されます。同時に、この会議で国際サッカー評議会(IFAB)が設立されることも決まりました。

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<1878年のイングランド対スコットランドの試合>

 パブリックスクールでサッカーが取り入れられた頃は、紳士のスポーツだから反則がないのが前提でしたが、時代を経て1888年にフットボールリーグがスタートすると、試合はより激しさを増し、仲裁する人の存在が必要になっていきます。
 1891年には『競技規則』の中にレフェリーとアンパイアが登場。レフェリーがピッチの中でゲームをコントロールし、アンパイアがラインズマンとしてタッチラインの外に出るようになったといいます。また、PKや警告、退場などより厳しい罰則もでき、1903年にはアドバンテージの規定が制定、反則に対するフリーキックから直接得点できるようにもなりました。

 FIFA(国際サッカー連盟)の設立は1904年。1906年にはIFABがここに加わり、世界のサッカーの統括機関となりました。

 1925年にはオフサイドが、3人の守備側の競技者より前方から2人に変わり、これによってツーバックからスリーバック制へ、そして、WMフォーメーションへとサッカーは大きく変わっていきます。
 審判の世界では、1938年にレフェリーのスタンレー・ラウス――のちにFIFAの会長になる人ですが――が、対角線式審判法を考案。また、競技規則も現在の17からなる条文に改正され、それがIFABで採択されました。その後もプレーヤーの安全性やサッカーの競技性を高めるためにルールが改定され、サッカーは成熟し、より魅力的なものへと変貌を遂げていくのです。

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 さあ、いよいよ現代のサッカー、そして日本の審判員の歴史へ――と思いきや、あっという間の1時間半。浅見先生の講義は、この時代までで、残念ながら現代サッカーと日本の審判員の歴史までは到達せず、次の機会へと持ち越されました。

 というわけで、昨日の研修会は、サッカーや競技規則のルーツを知る貴重な講義となりました。
 ちなみに、「日本サッカーと審判の歴史」は『JFAnews』の5月情報号から隔月で連載中ですので、興味のある方は、是非、こちらをお読みいただければと思います(購読のお申込みはこちら)。

※出典『最新サッカー大百科事典』(日本サッカー協会、日本サッカーライターズ協議会編)