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ウィークリーコラム

 川淵三郎キャプテンが7月3日、母校の大阪府・高石小学校で初の夢先生を務めました。講演やTVなどのメディア出演など、人前で話すことは慣れているはずの川淵キャプテンですが、夢先生としてはどうだったのでしょうか。
 今日は、川淵キャプテンが初の「夢先生」を務めた感想を語ります。

初の夢先生に緊張

 ついに夢先生として母校の教壇に立ちました。
 母校の高石小学校での「夢の教室」が決まってから、どんなことを話そうかとスタッフにも相談しながら準備を進めてきました。夢先生の中では、僕が最年長。これまでの夢先生の優に倍の人生を歩んできたわけですから、目標を持った数も失敗も挫折も倍以上。その中でどんなエピソードを話したら子どもたちが関心を持ってくれるのか、結構、悩みました。でも、自分が話したいと思うことが子どもたちに強く伝わるんじゃないかと思い、あれこれ要らぬことを考えず、率直な気持ちで臨むことに決めました。
 大阪には授業の前日、女房と広報担当のスタッフと入ったんですが、新幹線の中でも、ホテルに向かうタクシーの中でもやっぱり色々考えちゃうんですよ。「最初の出だしは、<僕はみんなのおじいさん、おばあさんと同じ年齢だけど、まだたくさんの夢を持っているんだよ>ってとこから始めようかと思うんだ」と言うと、女房が「大阪は、おじいさん、おばあさんじゃなくて、おじいちゃん、おばあちゃんよ」なんて、些細なことだけど、結構、重要なポイントとなることを言ってくれたりして・・・。そこで思いついて、「大阪弁で話そうかな」と相談してみたら、「50年も大阪弁を喋ってないんだから、不自然な話し方になるんじゃないの。いつも通りに話すのがいいわよ」とたしなめられちゃって(笑)。広報担当にも「川淵さん、今日は緊張して眠られないんじゃないですか?」なんて言われたり・・・。そんな会話をしながら、ちょっと緊張気味ながらも、ワクワク気分でホテルに入りました。

 当日の3日、大阪はこの夏一番の暑さとなり、じっとしていても汗が流れ出るほどでした。
 僕が6年生だったのは今から60年前。当時、児童数は全学年で1200人もいて、校舎も木造でしたから、当時の面影は全くないのですが、やはり、母校とあって感慨深いものがありました。
 授業は13時35分から90分間。控え室で日本代表のトレーニングウェアに着替え、「ゲームの時間」が行われる運動場に向かいました。
 この時間は、JFAこころのプロジェクトのスペシャルスタッフであるベテランの安永聡太郎先生に任せることにして、僕は児童と一緒にゲームに参加しました。安永先生は僕の年齢を慮ってくれたのか、あまり激しい運動は入っていなかったんですが、48人を4つのグループに分け、運動場を海に見立てて2枚のマットをいかだ代わりにし、それを交互に使いながら全員が海に落ちることなく運動場の端から端までを移動するっていうゲームで、女の子が「大丈夫?大丈夫?」なんて、何度も気遣ってくれて(笑)。いやぁ、久しぶりに大勢の子どもたちと体を動かし、本当に楽しかった!

三日坊主だった僕が日本代表に

 「トークの時間」については、それまでも毎晩、頭の中でストーリーを描いたり、ここではこういうことを言おう、なんて思い巡らして数日間を過ごしたわけですが、どういうわけか、高校生の頃の話になると睡魔が襲ってきてしまい、それ以上なかなか進まないんですよ。結局、高校生以降は予行演習できないまま、当日を迎える羽目になってしまいました。
 トレーニングウェアからスーツに着替えて、いざ、出陣。6年生47人が待つ教室に向かいました。
 時々、質問などを交えた方がいいと、授業のポイントを安永先生から指導されていたので、予行演習通りに(笑)、「おじいちゃん、おばあちゃんがいる人?」という問いかけから授業をスタートさせました。
 吉岡たすく先生の影響で児童劇団に入り、演劇には夢中になったこと。だけど、演劇以外は何をやっても三日坊主。野球や相撲、水泳など、好きな遊びやスポーツを適当に渡り歩く毎日でした。
 高校1年の時に、「サッカー部に入ったら四国に行けるぞ」という友達の言葉に釣られてサッカー部に入部。でも元来、三日坊主ですからね、四国行きを果たしたら当然、辞めるつもりでいたんです(笑)。しかし、友達に泣く泣く頼まれて続けることに・・・。ところが、続けるうちにサッカーの面白さに目覚め、高校3年で念願の全国高等学校サッカー選手権出場を果たしました。
 大学は、勉強もせずに受験して失敗。しかも、浪人時代、高校の後輩たちとサッカーばかりしていたため、2年目の受験も失敗。しかし、この時、大阪で都市対抗のサッカー大会があってそれに出場し、日本代表選手が何人もいるチームと試合したんです。そこで、「このくらいなら俺も日本代表になれるかも」と手応えをつかみ、初めて「日本代表になりたい」という明確な目標ができたんです。
 二浪後、めでたく早稲田大学に進学することができ、もちろん、サッカー部に入部。幸運にも2年生で代表選手に選ばれました。ここで「東京オリンピックに出場したい」という次の目標を抱き、来る日も来る日も練習に励みました。しかし、オリンピックを翌年に控え、脊椎分離症でBチームに落とされてしまうんです。このときは失意のどん底でしたね。しかし、「負けてたまるか!」と、ビタミンB1を通常の3倍も飲んで直したんです。
 そして迎えた東京オリンピック。僕たち日本代表は、優勝候補のアルゼンチンを相手に3-2で逆転勝利。大勢の関係者や友人でごった返す中、クラマーコーチが選手だけを集めて、「君たちはよくやった。今日は大勢の友達と喜びを分かち合いたまえ。しかし、今、一番友達が必要なのはアルゼンチンの選手たちだ。だから僕はアルゼンチンのところに行ってくる」と言って、出て行ってしまったんですね。「なんのこっちゃ?」と気にも留めていなかったのですが、その後、チェコに大敗すると、またクラマーコーチが選手を集め、「今日、訪ねてくる友達は少ないかもしれない。しかし、今日来てくれる友達こそが本当の友達だ」と言ったんです。この言葉は生涯、僕の心の拠りどころであり、時に戒めにもなる言葉になったんですが、ここで僕が感極まって涙ぐんでしまったんです。そしたら、子どもたちの中にも涙ぐんでいる子どもがいてね。「ああ、伝わっている」とホッとしました。

易しい言葉で話すことの難しさ

 僕の話が終わってから、子どもたちに自分たちの夢を発表してもらったのですが、みんなしっかり夢や目標を持っているんですね。「板前になって自分の店を持ち、家族を呼んで笑顔にしたい」とか、「野球選手になって、阪神タイガースに入りたい」とか、「医者になっていろんな病気を治したい」とか。僕まで嬉しくなりました。
 ちなみに僕が発表した夢は、「日本中の学校の校庭を芝生にしたい」、「2050年までにワールドカップを日本で開催したい」、「そして、その大会で日本代表が優勝する」。71歳になっても、まだまだたくさん夢があって、そのためにがんばっているってことを伝えたかったんです。
 そんなこんなで、一応、授業は時間内に無事おわりましたが、子どもたちにわかりやすい易しい言葉で話すっていう難しさを痛感しましたね。「転機」とか「左遷」とか、つい使い慣れた言葉を使ってしまって・・・。小学生にはちょっと難しかったかもしれませんね。
 結局、大阪弁で喋るほどの余裕もなく(笑)、あっという間の55分でした。時間が気になったので、少し、テンポも速く、詰め込みすぎだったかな。でも、一応、言いたいことは言えたと思っています。
 この「夢の教室」は、学校の先生のアンケートやプロジェクト推進室のスタッフのレポートをもとに採点されるんですが、及第点を取れたかどうかちょっと心配。次にやる時には、今回の反省点を生かして、しっかりやりたいと思っています。

 さて、このコラムも1年にわたって掲載してきましたが、12日の評議員会をもって退任となるため、今週金曜日のコラムが私の最終回となります。
 是非、最終回もお付き合いいただきますようお願いします。