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ウィークリーコラム

 2002年のFIFAワールドカップ後に日本サッカー協会(JFA)会長に就任した川淵三郎キャプテンは、明日(7月12日)のJFA評議員会を持って退任します。
 川淵キャプテンの最終回となる今週のコラムは、半世紀にわたる自らのサッカー人生を振り返ります。

人生、何が起こるかわらかない

 僕がサッカーと出会ったのは15歳の夏、もう半世紀以上も前になります。
 高校1年生の1学期、「サッカー部に入ったら四国に遠征に行けるぞ」という友達の誘いに釣られ、ボールの蹴り方もわからぬままサッカー部に入りました。入部したばかりの僕に対して監督は「とにかくボールが来たら外に出しとけ!」と一言。四国で初出場を果たした試合では、前に敵がいるわけでもないのに、言われた通りに外に蹴り出したんですからね(笑)。そんなレベルだった僕が50年後に日本サッカー協会の会長に就くとは、当時の誰が想像したでしょうか。
 本当に人生は何があるかわかりませんね。大学受験に失敗した浪人時代に、「日本代表になりたい」という目標を持ち、東京オリンピック出場という夢を叶える。次の転機はサラリーマン時代、子会社への出向を命じられ、左遷人事(今考えれば左遷でもなかったのでしょうが)と、失意のどん底にいるとき。JSL(日本サッカーリーグ)の総務主事にならないかというオファーをもらい、次の人生を日本サッカーの発展に懸けようと決断しました。その後は皆さんご存知の通り、Jリーグのチェアマンを経て、2002年、日本サッカー協会の会長に就くわけです。
 考えてみると僕は、成功をバネにというのではなく、失敗や挫折が転機となってサッカー人生を歩んできたと言えるでしょうね。幸い、どんなに落ち込んでも、最後は「負けてたまるか」という強い気持ちで前へ前へと進んできたような気がします。

サッカー人生を支えたクラマーコーチの言葉

 Jリーグのチェアマンになってからの僕の人生は、山あり谷あり。もちろん、誰でもそうでしょうが、Jリーグのトップとして世間の注目を浴びる存在だっただけに、その喜怒哀楽の振幅の大きさといったら、サラリーマン時代のそれを遥かに凌ぐものでした。そんな僕の激動の人生を支えてくれたのは、東京オリンピックでのクラマーコーチの言葉でした。
 優勝候補のアルゼンチンに3-2で勝利した時、僕ら日本代表のところにはたくさんの人が祝福に駆けつけてくれました。関係者はもちろん、初めて会うような人たちも含めて、僕らのロッカールームは大勢の人でごった返していました。しばらくするとクラマーコーチはその人たちを退席させ、選手だけを集めて、「今日は新しい友達も含め、多くの人々が祝福に来るだろう。今日はみんなと喜びを分かち合いたまえ。しかし、今、慰めと励ましが必要なのはアルゼンチンの選手たちだ」と言って、アルゼンチンのロッカールームに行ってしまったんです。その時は「何を言ってるんだろう」とさして気にも留めず、金メダルを取ったかの勢いで喜び合っていました。
 その後、ベスト8をかけてチェコスロバキアと対戦し、日本は4-0で完敗してしまいます。「これで東京オリンピックは終わった」、そんな寂寥たる気持ちでした。その時、クラマーコーチは再び選手を集め、閑散としたロッカールームでこう言いました。「君たちはよくやった。それは僕が一番よく知っている。今日はサッカーのことは忘れよう。しかし、今日、訪ねてくる友達は少ないかもしれないが、今日の友達こそが本当の友達だ」と。
 その言葉は後年、特にJリーグのチェアマンになった後、ときに戒めとなり、慰めとなって僕の人生を支えてくれました。
 1991年11月1日にJリーグのチェアマンに就任。1993年に開幕すると、「Jリーグ」や「サポーター」、「チェアマン」といった言葉が流行するなど、社会現象とも言える盛り上がりとなりました。このときはまさに、アルゼンチン戦のあとの状態で、それはもうたくさんの新しい友人ができました。その後も、初のワールドカップ出場権を手にした“ジョホールバルの歓喜”、そして2002年の日韓共催大会でのベスト16入り、そしてジーコとともに勝ち取ったドイツ大会の切符――嬉しいことがあるたびに“アルゼンチンの友人”は大勢やってきました。中には僕がやったことでもないのに、まるで僕の功績のように褒め称えられることもあったくらい(苦笑)。
 一方、“チェコ戦”として思い出されるのは、フランス大会のアジア予選でカザフスタンと引き分け、加茂周監督が更迭されたとき。まだJリーグのチェアマンでしたが、なぜかこの時は僕自身が責任を負わないといけないような気分になったんですよね。いつも負けじ魂で闘ってきましたが、「人はこんなときに屋上から飛び降りる心境になるんだろうか」と、このときばかりはさすがの僕も精神的に追い込まれていました。
 次は、Jリーグブームが去って1998年に横浜マリノスと横浜フリューゲルスが合併する事態になったときですね。日本全国に「地域に根ざしたクラブ」をつくりたいという強い思いを持っていた僕としては、忸怩たる思いでこの合併を受け入れるしかなかったわけですが、サポーターの憤りや悲しみはどうにも止められなかった。

家族やスタッフ、応援してくれる人の支えに感謝

 最近では、初戦のオーストラリア戦で逆転負けを喫し、惨敗に終わったFIFAワールドカップドイツ大会。一転して日本サッカーが逆風にさらされ、サッカー界が一致団結してその荒波を乗り越えなければならないのに、まったく逆の動きをしたり、根も葉もないことを言う関係者もいたりして・・・これにはさすがに憤りを覚えましたね。
 日本サッカーを代表する立場として非難の的になるのは仕方がない、それは覚悟のこと。そこは甘んじて批判を受けてきました。組織のトップとして毀誉褒貶(きよほうへん)は必然であり、それまでも様々なことがありましたから、僕には耐える力がありました。しかし、平凡な主婦である女房を、根拠のない誹謗記事や見出しの暴力、嫌がらせの電話や手紙といった恐怖にさらしたのは、本当に申し訳なく思っています。
 昔、巨人軍の川上哲治監督が優勝できずに苦悩の毎日を送っているとき、川上さんが奥さんに「辞めようか」と言ったところ、奥さんが「あなたには野球しかないんだから、続けて下さい」と言ったそうです。その後、川上監督は、セ・リーグ9連覇という偉業を成し遂げた。僕も、家族やスタッフの支え、そして“チェコ戦の友人”がいてくれたから、しっかり前を向いて来られたんだと思います。
 そうそう、このときは「川淵辞めろ」というファンのデモまで起こりましたね。それは腹立たしいというより、むしろ懐かしい思い出ですが・・・。
 代表チームの敗戦でその協会のトップが責任を取って辞任するというのは、世界でも例はありません。というのも、会長の仕事というのは日本代表だけではない。キッズからシニアまで、草の根のサッカーを普及させること、47都道府県サッカー協会の活性化、指導者や審判の養成、ほかにも、JFAこころのプロジェクトやアジアの国々への貢献といった社会貢献活動など、理念である「人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献する」義務がある。日本代表の関心が高いので、どうしても日本代表が全てのように思われるんですが、そうではないんですね。まぁ、それだけ日本代表の人気が高いという証ですから、色々なことが起こるのはしょうがないんですけどね。

全ての重圧から解放

 1988年にJSLの総務主事になってから今年でちょうど20年、いよいよ明日をもって退任となります。自分でも不思議なんですが、ここ数ヶ月は「ようやく解放される」という、半ば待ち遠しいような気分で過ごしてきました。AFCプロリーグ特別委員会の長としての仕事がありますから、しばらくは忙しくやっていくことになりますが、協会長としては「やり遂げた」という達成感と充実感を持っています。
 47都道府県の活性化については、キャプテンに就任してすぐに「プレジデンツ・ミッション」を策定し、トップダウン方式で改革に着手しました。サッカー協会は長い歴史がありますから、滞りなくやってはいけるんですが、僕は、成長していく右肩上がりの角度を10度から30度、45度と、できるだけ高くすることで将来大きく発展させたかった。最初の頃は、僕の強硬な改革案に対して難色を示す地方協会もありましたが、徐々に理解が得られ、今ではトップダウンからボトムアップへと変わってきました。また、47の都道府県全てが法人化を果たしたことも大きなことだと思っています。
 都道府県協会の組織が強化され、様々な活動が活発化したこと、JFAこころのプロジェクトといった教育面での貢献活動にも着手できたこと、そして、JFAアカデミーでのエリート教育――今後の発展のための礎を築くことができたのは、ご支援いただいたスポンサーや行政、そして多くのサポーターがいてくれたからと感謝しています。
 もう一つ、象徴的なことを挙げれば、サッカー協会が自社ビルを持てたことでしょうか。当時、2002年のワールドカップが赤字になったときに備え、JFAは1993年から6年間、Jリーグから入場料に比例した額の納入金を得ていたんです。幸い、2002年大会が大成功を収め、その剰余金が加わった。そんなところに時の運もあって、良い条件でこのビルを購入できたんですね。ワールドカップを開催した国はどこも自分たちのビルを持つに至っているんですが、日本サッカー協会もJFAハウスを持ち、そこに念願のサッカー殿堂も設置できましたから、諸先輩の夢を叶えることができてホッとしています。
 JFA自体も、これまでにないくらい優秀な人材が集まっており、彼らが夢を持って様々な仕事にまい進してくれています。あとは、みんなに後事を託すだけ。後顧の憂いなど全くなく、日本サッカー協会は新会長のもとに更なる発展を遂げていくものと確信しています。
 僕は今後、アジアサッカーの改革を継続する傍ら、「校庭やグラウンドの芝生化」と「地域に根ざしたスポーツクラブ」を拡大すべく、その意義や素晴らしさをPRしていきたいと考えています。それが、次代を担う子どもたちの健全な成長や人々の豊かな生活に、必ず良い効果をもたらすと信じているから――。

 最後になりましたが、僕を支えてくれた多くの皆様にこの場をお借りして心から御礼申し上げるとともに、今後も日本サッカー協会の活動にご理解、ご支援賜りますよう、宜しくお願いします。
 また、来月にはオリンピックが、そして9月からは長く厳しいワールドカップ最終予選がスタートします。ファン・サポーターの皆様にはこれからもスタジアムに足を運んでいただき、代表チームに熱いご声援をお願いしたいと思います。
 長い間、ありがとうございました。